宮崎県立視覚障害者センター 公益財団法人宮崎県視覚障害者福祉協会

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所長の日日坦坦(ひびたんたん) 「支えあればこそ」 

  • 所長の日日坦坦  「支えあればこそ」

センターだより第131号をお届けします。本号が皆さまにとって有益な内容でありますことを願っております。

 

9月8日に幕を閉じたパリオリンピック・パラリンピック。今回もたくさんの感動にあふれました。今もいくつもの名場面や多くの選手の姿が鮮やかによみがえってきます。誰しも、これまでのオリンピック・パラリンピックの中で忘れることのできない選手がいることでしょう。

私も多くの選手が印象に残っています。中でも一番に思い浮かぶのは、2012年ロンドンオリンピック、レスリング女子フリースタイル48㎏級金メダル、小原日登美(おばら ひとみ)選手です。

坂本日登美・真喜子(さかもと ひとみ・まきこ)姉妹は、伊調千春・馨(いちょう ちはる・かおり)姉妹と同じく青森県出身。小学生時代にレスリングを始めます。二人の活躍はめざましく、日登美選手は2000年から2011年までに世界選手権を8回制覇しています。姉妹ともにオリンピックでの活躍が期待される選手でした。

2004年アテネオリンピックから正式競技となったレスリング女子ですが、世界選手権が7階級で行われるのに対し、オリンピックは4階級です。このことが、日登美選手に非情な苦難を強いることになります。

日登美選手の階級である51㎏級は実施されないため、オリンピックに出場するには48㎏級か55㎏級のどちらかに移らなければなりません。48㎏級には妹の真喜子選手がいるので、必然的に55㎏級を選ぶのですが、そこには、あの吉田沙保里(よしだ さおり)選手がいました。

2002年の全日本選手権。決勝で吉田選手に挑みますが、完敗を喫します。目標を失った日登美選手はその後現役を離れ、失意のうちに故郷へ戻ります。うつ、過食、自傷、引きこもりの状態が続き、カウンセリングも受けたそうです。

そんな中でも、レスリングへの思いが消えることはありませんでした。学生時代から続く月経不順やけがに悩まされながらも、家族の献身的な支えがあり、再び55㎏級で2008年北京オリンピックをめざします。しかし、ここでも吉田選手の壁を越えることはできませんでした。

2008年、現役生活に終止符を打ちます。

引退後は妹のコーチに就いていましたが、2009年、妹が結婚を機に引退することになり、その妹から48㎏級でオリンピックをめざすことを強く勧められ、二度目の現役復帰を決めます。

復帰後も苦労の連続です。減量による消耗に加え、不安や迷いもありました。2010年のアジア大会では、国際大会で11年ぶりとなる敗戦を喫しています。

妹や両親に加え、この間に結婚していた夫も彼女を支え続けます。この支えを力に2010年、2011年と世界選手権を連覇し、みたび巡ってきたオリンピックのチャンス。その年12月の全日本選手権を圧勝し、ついにオリンピック代表の座を勝ち取ります。

ここまで多くを犠牲にしてきた彼女は、この晴れ舞台を最後に引退することを決めていました。31歳で迎えた最初で最後のオリンピックです。

2012年8月9日、ロンドンオリンピック、レスリング女子48㎏級の試合。3戦を無難に勝ち抜いた日登美選手は、決勝に臨みます。相手は、前回北京オリンピックの銅メダリスト。強敵です。試合開始直後にポイントを取られ、この日初めて相手に先制されます。しかし、その後逆転し、最後までリードを守り切って、勝利を収めました。

度重なる苦難を乗り越え、家族とともにつかんだ栄冠。涙しながら日の丸を掲げる姿は、前年の東日本大震災からの復興の道を歩む地元の人たちをはじめ、日本中の感動を呼びました。

2022年9月、世界レスリング連合は日本人3人の殿堂入りを発表します。オリンピック4連覇の伊調馨さん、3連覇の吉田沙保里さん、そして小原日登美さんです。セルビアで行われた授賞式には、夫と長男、長女の4人で出席したそうです。

現在、自衛隊体育学校で後進を指導している小原さん。オリンピックを振り返って、「つらいことがあっても、みんなで支え合って前に進めば明るい未来につながっていく。金メダルがそれを教えてくれました」と語っています。オリンピックのレスリング女子は、2016年リオデジャネイロ大会から6階級で実施されています。